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飛べないフクロウの意味

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ヘレンドのコリントのフクロウ

自分のことを「飛べないフクロウ」になぞらえたのは、私が子宮がん後遺症のリンパ浮腫持ちで、中々自由に行動ができないからです。また、夕方から夜になるにつれ元気になる夜型人間だから。

でも、調べていると実際 飛べないフクロウ は存在していて、「カカポ」というらしい。絶滅危惧種ということも。

私自身も、1人しか子を持てず、その子もまだ子孫を残していないから、今のところ絶滅危惧種というのも当たっているかも。

2000年に子宮頚部の腺がんのⅡb期で見つかり、当時は診断がつくや否や即開腹手術。頚部に5センチの腺がんで、放射線は効かず、術後、卵巣がんの方と同じ抗がん剤を3クール(タキソールとカルボプラチン)。

髪の毛は見事に抜け落ち丸坊主に。かなり腹部のリンパ節を郭清した模様。42歳、専業主婦、夫と小6の息子(地方なのに中学受験の真っ最中)がいました。

40歳で受けた頚部のがん検診では見つからず、1年半後に便秘時の不正出血で婦人科再受診。しかし、そこでも経過観察、3か月後と。10日後再度排便時に不正出血、夫と一緒に再受診。

内科勤務医だった夫が「細胞診だけでなく、組織診もお願いします」と言って、組織4か所検査に。2週間後に私にではなく、夫に腺がんの連絡。それからは、先ほどの通りの顛末。

夫の勤務する病院での手術・入院は夫も私も恥ずかしかったが、背に腹は代えられない。3か月半の入院を経て丸坊主で退院、元々細いのが38キロまで痩せました。身長は当時は160センチ。


私の実母(当時68歳)が手伝いに来てくれてたことは感謝だったが、息子は希望校受験失敗に終わる。やはり最後まで受験を見てやれなかったことが残念でならなかった当時の気持ちが蘇ります。

執刀医の「今後は普通の暮らしはできない」という言葉にショックを受ける。住んでいた山手の戸建てでは、車の運転、買い物、重いものの持ち運びなどを諦めざるをえないと実感。

すぐに便利な街中のマンションを探して買い替え、息子が中学入学直前に引っ越し。すべてを引っ越し業者に頼むことに。

その後半年もしないうちに、元々激務だった夫がくも膜下出血で職場で倒れ、8日後に脳死のまま逝去。髪の毛も生えそろわないまま、カツラを被って夫の葬儀をあげる

遺された息子と私は呆然自失。実母や妹夫婦に支えられ、なんとか普通の暮らしができるようになってきた頃2003年、事務の仕事を始めてみる。

が、夏の暑さと仕事、主婦業で風邪をひき、やむなく退職。仕事もできないのか?!と八方塞がりを感じ、うつ病発症

眠れなくなり、心療内科(精神科)に通うことに。今思うと、ここで仕事を止めたせいで当時は、リンパ浮腫発症は免れる。

しかし、結局自分のキャパ以上のことをしてしまい、2005年リンパ浮腫発症!

執刀医の言葉「普通の生活はできない」とはこのことだったのか!と実感。それから17年起立時は必ず弾性ストッキング直用。

経年劣化する身体は、よく合併症の蜂窩織炎(ほうがしきえん)を起こすようになり現在に至ります。

ドイツ メディ社の弾性ストッキング

最初は軽く考えて、旅行も行ってましたが、年々行動範囲が狭まります。QOLはびっくりするくらい低いでしょう。コロナ禍でもほぼ生活が変わらなかったのは元が低いため。

もし、コロナ禍が終息しても、きっとどこへも行けない生活はそのまま。韓流ドラマにハマってからは、一度くらいソウルにも行きたいけど、多分無理。ヨーロッパなんて、夢のまた夢。

それでも、還暦過ぎても生かされていることに感謝、ひたすら感謝の毎日です。少しでも楽しく生きていきたいという思いでいっぱい。

今同じようにリンパ浮腫を抱えておられる方、頑張りましょう!そして、がん闘病中の方も頑張らないで、少しだけ頑張りましょう!

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