母の晩年、あれだけ確執があり、近くに住むことすら拒否していた私でした。
嘘つきで、見栄張りで、外見至上主義だった母親。尊敬なんてとてもできませんでした。
が、いざ本当にこの世から母の存在がなくなった今思い出すのは・・・
密接に関わってしまった病気以来のことが母を遠ざけた
42歳で子宮がんに罹患していることがわかり、母に夫と息子の応援のために来てもらいました。
その時母はすでに68歳、今の私より歳がいっていたのでした。
にも関わらず、私の3カ月半の入院期間、夫と息子の食事作り、家事全般をやってもらいました。
しかし、息子は中学受験に失敗、引っ越したこのマンションでわずか3カ月後に夫が急逝。
母が息子の受験の意志を喪失させた、夫が母に気を遣った挙句のストレスなど、母のせいにしていました。
その後も、息子を1人で育てることになってから、後遺症のリンパ浮腫を発症してからも頼めば何回も来てくれた母でした。
最初は軽かった蜂窩織炎でも、今のように1人で寝込んでおけない、息子のご飯作りがありました。
1週間で治りきらない時に、どうしてもソリの合わないことがわかった母に応援依頼をしていました。
まだ今のように簡単にホームヘルパーさんを頼めることを知らなかったのです。
自分が病気をしてしまったことが一番悪いことはわかっているのです。
が、1人での子育て、病身での子育てには助けが必要でした。
そこで、あまりにも深く、濃く母と関わることになり、知らなくて済んだことまでお互いに知りつくし・・
親子であるがために、嫌な部分をお互いに見ることになり、益々母のことが嫌いになっていきました。
母も私のことは嫌いな娘だったと思います。
母が亡くなって1か月以上が過ぎ・・昔のいい思い出ばかりが
もう1か月が過ぎました、母が亡くなってから。
母の遺影だけは私が預かっていますから、仏壇はありませんけどお参りはしています。
このGWの落ち込み・気分の沈みも、母の死と関係は大いにあると思いました。
死んだ人は「美化」されるのでしょうか??
思い出すのは、まだ母は若く、私は幼かった頃のことから、病気をする以前のことばかり。
母と行った幼稚園の遠足のこと、教会での七五三のお祝い、オルガン教室に通ったこと、お寺に習字を習いに行かせてくれたことなど。
オルガンは上達せず、嫌がって止めて、習字だけは書道まで習い続け、今も字は上手いと言われます。
これは、ひとえにあの時に、母がお寺に習字を習いに連れていってくれたからです。
子どもの頃は、まだ母も母親として、一生懸命やってくれていたんですよね。
料理はお世辞にも上手くはなかったのですが、煮物などはよくやっていたのは覚えています。
高校生になって、自分で買い食いをするようになってから、母の手料理をあまり食べなくなった私。
自分で自分の健康を損なうような行為を、若い頃からしていたんだと回想しています。
高校で文転してからも、高3で私大の薬学部に推薦で行けるように決まった時は、母はそちらを是非と勧めました。
しかし、遅れた反抗期の私は、尊敬できない母親の言うことは聞きませんでした。
「絶対、国公立大学に行くんだから!」と決めていました。自分が何様のつもりだったのでしょうか。
今思うと、母の言ったことは先進的だったのです。私は手に職をつけられるチャンスを自ら逃している。
こんな反抗的な娘の私にも、高校生時、大学生の家庭教師をつけてもらってもいたのです。
その家庭教師のお兄さんにも、夕食を出していた母。
そんな母の期待を見事に裏切った進学先、自分でも不本意で勉強しなかったツケは今感じています。
思い出すのは、何故か娘を見守る母そのものなんです。
息子を出産時は里帰りしたのですが、産まれたての息子をよくお風呂に入れてくれました。
その後、夫の最初の赴任先の官舎には1か月居てくれて、乳飲み子の息子と私の世話もしてくれました。
私が病気さえしなければ、母とも上手くやっていけたのかもしれません。
私の病気と夫の死は、実家の家族関係に大きく負の影響を与えました。
いなくなってからしかわからない私は、悪いところばかりしか見えなくなっていた「大バカ者」でした。
こういうふうにしか生きられなかった自分が情けない。
もう少しでいいから、頑丈な身体とメンタルがほしかったです。
しかし、これも「運命」なんでしょう。
今は、亡き夫と父母の供養を毎夜しながら休むことにして心を鎮めています。
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