ちょうど30年前に私たち夫婦と息子はアメリカ、テキサス州ダラスにいました。昔話にお付き合いください😊
夫33歳、私32歳、息子もうすぐ3歳。時はまだ日本が経済成長中でイケイケの頃です。
今も商社や自動車会社、研究者、もう色んな会社の日本人の方がダラスにも在住だと思います。
意外に日本人が当時は多かった(多いところに住んだ)と感じました。
昼間は40℃、夏が長く、エアコンは年中つけていました。
日本ほど湿度がないので、蒸し暑いのではなく、焼け付く日照りの暑さ・熱さって感じ。
春・秋がほぼないので、一気に寒くなった時には、冷房から暖房に突然切り替えるような激しい気候。
若かったから行けました。今思うと「無謀」、キャパを超えたことをしたと思えます。
車は夫婦で2台、そうでないとどこへも行けません。私も片道4車線の道路を50マイルで運転してました!
とにかく暑い、車での移動、滝のような雨 似てきた日本が怖いよ
着いた翌日、夫と私は車の運転免許を取りに、日本人の先輩に連れて行ってもらいました。
夫はすぐにパス。私は1回目落ちて🤣🤣、翌日また挑戦して免許取得。これなしには動けません。
夫の車は前任者の車を安く譲り受け(ニッサン・セントラ 日本のサニー)、私には新車を買い与えられました。
ホンダのアコード全盛期で、値段が高く手がでなかったので、私には三菱のギャランの新車を。
女性は、故障しない新車に乗るのが普通でした。故障して事件に巻き込まれるのを防ぐために。
3歳を過ぎた頃、息子をモンテッソーリのプレスクールに午前中だけ入れました。
そうしたら、アメリカのウイルス・細菌は強かったのか?!、息子がたびたび熱を出して大変でした。
持って行った体温計は摂氏で出るので、それを華氏に直して電話で医師に伝える、もう大変。
100.4度と104度では、38℃と40℃の違いがあるので、何度も「one hundred point four!」と叫ぶ私。
そしたら、安心したように、医師が「連れてきなさい」と。辞書を持って受診しました。
「injection」も覚えていなかったあの頃、先生は「予防接種はしたか?」と聞いたのでした。
暑さと英語での苦労は、私の大きなストレスになっていました。
最初は大泣きしていた息子も、慣れたら、私のほうを振り返らずスクールに向かって走ってました😉
車に乗る前の車内の暑さ・熱さは、フロントガラスにカバーをしていても、エアコン入れてしばらくはハンドルが持てない!
普段の買い物は、夫が休みの土曜日にまとめて1週間分を買っていました。
あとはひとりで、友人に教えられた日本食品店と韓国食品店に買い物に行ってました。
意外に、ダラスでも和食を作って(肉じゃがや納豆、味噌汁、魚の塩焼きなども)食べていました。
アパートメントはプールを囲む形に、2階建てで、木とレンガで作られた建物が集落みたいに建ってました。
とにかく、どこへ行くにも車、車がなかったら陸の孤島にいる気分になったでしょう。
中央あたりに事務所と噴水があり、毎月の家賃は小切手(check)を事務所のポストに入れるだけ。
日本人はたいがいが集まって協力して住んでいて、奥さんたちは子育てしながら、クラフトを楽しんだり。
日曜日は、バプテスト派の教会のボランティアのおばあちゃんたちに、英語を習っていました。
子どもたちは、教会のボランティアのお姉さんたちが預かってくれていました。
しかし、テキサス訛りの英語は聞き取りにくく、まるで上達しないまま~(残念!)
夫たちは、休みとなると、当時流行り始めたパソコン屋さんに車で連れだって通っていました。
何度か付いて行った、あの「コンピュUSA」や「コンピュServe」はどうなったんだろうか?
今も夫がいてくれたら、懐かしい話しをもうたくさんして、話し飽きてる頃でしょうね。
40℃の暑さの中、散歩は近くのモールへ 自己主張のお国柄
ニューヨークなどとは違って、アパートの外や道路は歩いている人は全くいません。
ニューヨークに来ていた同級生のところに遊びに行った時は、今の日本のホテルみたいな住まいでした。
テキサスでは、すべてが車。しかし、その車がよく故障してました。
みんな故障しない日本車に乗りたがりました。
でも、ホンダ・アコードは値段が高い、アメリカ人にも高嶺の花でした。
そして、みんな散歩に近くのモール(デパート併設、個人のショップがいっぱいあって数階建て)へ。
アパートの駐車場は部屋の前にあるのですが、防犯のため屋根がありませんでした。
モールは今の「イオン」のような立体駐車場になっていて、降りる時と乗る時は特に注意が必要。
後ろの席に誰かが隠れている可能性があるため、後部座席を確認して乗っていました。
日本に「イオンモール」ができ始めた頃、「ああ、アメリカのモールを真似てるんだなぁ」と思いました。
老いも若きも、そこくらいしか歩ける場所がないのです。それくらい、暑さが長く、寒さは短いが激しい気候。
日本も、この20年ですっかり気象が変わってしまいましたよね。
なんだか、ダラスを知っているせいか、あの砂漠の中に作った人工都市に似てきた~と思います。
若かったあの頃は、なんとかTシャツとキュロットスカート(古!)で対応できていました。
30年後に日本が、あのダラスの気候に似て来るなんて、夢にも思っていませんでした。
少し車を走らせると、陽ざしを反射するかのような鏡張りの高層のビルが多かったのが印象的。
空が急に暗くなったかと思ったら、ものすごい勢いの滝のような雨。スコールっていうのかな。
車のワイパーをフルに稼働させても、前が見えなくなる激しい雨に、路肩に止まったことも。
それでも、運転できないことは、即生活に影響するので、80歳を過ぎたおばあちゃんでも運転するのが普通でした。
だから、交通事故も多い! 日本人はハンドルが逆なせいか、よく事故を起こしていました。
うちも、夫はぶつけられ、私は注意不足でぶつけてしまいました😭
夫がぶつけられた時は、相手のメソジスト派の牧師さんの奥さんが「You hit me!」と言ったのです!
夫が何も言わないので、私が「No,You hit us.」と応戦しました。相手の信号無視です。
それは、目撃者がいて、相手のご婦人の車が赤信号を無視したと証言してくださったのでした。
自分が悪くても絶対に謝らない、謝ったら負けるというお国柄。よ~く学びました。
私の場合は、その逆で、私がボ~ッとしていて赤信号で交差点に入っちゃてました💦
明らかに私が悪いので、「すみません、あとは保険会社に任せます」と言って連絡先を交換して、凹んだ車で帰りました😭
夫に迷惑をかけてしまいました。英語でのやりとりも、最初の喧嘩はできても、詳しいことはわからず・・
申し訳ないことでした。だって、次から、ただでさえ日本人は保険料が高いのが、更に高く😱
そんなこともあったりして、私は車は運転しないことにして22年、上手い方を尊敬するのです。
色々あり帰国して思ったのは、「日本はマイルドな国」 それが今や
北はカナダのバンフや南はヒューストンまで数か所を旅行もして、楽しいこともありました。
趣味でパッチワーク、デコパージュ、レース編み、トールペイントと短い間にやってみました。
若かったからできたこと。
まだ断捨離できていないものが少し残っています。若い頃はモノが欲しいのですね。
もう捨てる時期にはなりましたが。
捨てられないモノもまだ残っています。
あちらで買った、ビタクラフトの鍋は2個、今も使っています。お皿やカップも。
息子たちは、ハロウィーンには仮装させて、日本人数人で車で邸宅街に連れて行きました。
「trick or treat!」と言ってお菓子をもらってました。
日本で大人も仮装し始めるず~っと前です。
1992年秋、息子はディズニーの「ダルメシアン」の格好で。
友人のToちゃんはアリスに。後ろのアメリカ人の女の子のティンカー・ベル仮装の可愛くて妖艶なこと!
写真も見れるところに残っているせいか、忘れられない思い出です。
2年という期間にギッシリ詰まった思い出を語る夫も居なくなって淋しいかぎり。
帰国してから、すぐに感じたのは、「日本ってやっぱりいいなぁ」「気候もマイルド、人もマイルド」
そして、なんと「日本のトマトは美味しい!」でした。
それが~~~~、今や日本の暑さもダラス並み。そして、湿度は高い。より住みずらい。
「地球の温暖化、なんとかならないか」と思いながらもエアコンの中でしか生活できないこの矛盾。
この環境を楽しめる人のみが生き残っていくのでしょうね。
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