2022年、今日と明日は主に国公立大学の共通テストの日。
若い皆さんは、今ごろ文系科目を頑張っておられることでしょう。寒いので風邪をひかないで頑張ってほしいなぁ。
私の頃は、そういうものはまだなくて、国公立大学一期校二期校なんていう、1人で2校国公立を受けられる30年ほど続いた受験制度の時代。
この後割にすぐ「共通一次試験」なるものが導入された。
私は高2まで理系志望だったが、高3になってから成績が伸び悩み、文転。一期校は某国立大学の経済学部を受験した。
当時は受験は3月初旬、雪が舞っていたのを覚えている。高校生だったから、寒さはさほど感じなかった。
なにより、経済学部で数学を失敗して撃沈。失意で受けた二期校の公立大の文学部英文学科も落ちた。
仕方なくではあるが、(女子が浪人するような時代ではないと思い込み)滑り止め(懐かしい言葉)に受けた地方私立の大学の英文科に進んだ。
ちっとも勉強せず、遊んでしまい、何も身につけず、今思うと心から勿体ない時期を過ごしてしまった。これが後の人生に大きく影響を及ぼすこともわからない、世間知らずの女子だった。
夫も一つ上の学年だったから、当然同じ制度で受験している。彼は非常に努力家だったらしい。
東京のT大学の最も難しい学部の模試判定に50%が出たと、結婚後話していたことがある。でも、確実を期して九州から出ないで、国立大学(当時は旧帝大と呼んでいた、古)の医学部に進んだ。
実学を学んで即、職業に結び付く、いわゆる職業訓練学部。夫がいたら、聞いてみたいよ、当時の受験の話が。
息子の頃は、すでに共通一次は終わっており、「センター試験」なるものと、各大学の2次試験のある制度に切り替わっていた。
息子は中学受験に失敗してから、不本意な中高一貫に通っていた。このままではボヨ~ンとした男の子になるのでは?と思った私は、息子に早めの予備校通学を勧めた。
1人しかいない子、しかも男子、自分で稼げる、自立した人になってほしかった。
夫がいた頃まではクリスマスにサンタさんが本当にやってくることを信じていた純真無垢な12歳の少年。世の中の荒波に飛び込んでいけるか、当時のままでは不安があったから。
夫は「ゆっくり大人になればいい」と常日頃言っていたが、当の夫がいなくなってからはの責任の多くは自分にあると自覚した。
少しアスペルガーっぽい息子が心配だった。パソコン大好き少年だったから、工学部が本来は妥当だったと思う。
予備校に行き始めてからの息子の数学・物理・化学の成績はどんどん伸びていった。私も驚くほどに!
息子は中学受験の時に、鶴亀算や旅人算などがサッパリわからず、思い切って方程式を教えてみた。
何度教えても、全くX(エックス)を理解してくれなくて、この子は受験、、どうなるかと案じたものだったのだ。
東京の大学見学に行ったのは、息子が高2の最後の春休み、受験まで後1年という頃。T大学を初め、工業系国立大学、有名私立大学のキャンパスを見学して回った。
そして息子が言い放ったのは、「僕は東京に興味はない!人が多すぎる。住むところじゃない!」と。
せっかく見学に行ったのに、やはり田舎者は田舎にいるしかないのか・・と私はガックリと肩を落とした。
息子は妙なところだけ目ざとく見ていたのには驚いた。T大学の校内のマンホールの蓋には「東京大学」と明記されていた。
こんな普通は目が行かないところに目が行く、一風変わったところがあることがよ~くわかった2人旅であった。
模試では、T大学の一類も二類もA判定が出ていたのに残念でならなかった。
そこで、こんな変わり者は何か資格を持たせていたほうが潰しがきくのではと思い、地元の医学部受験を勧めてみた。
逆に模試ではT大学と違ってB判定までしか出ていなかった。が、彼は無事に現役合格した。
2次試験は2日あった。彼は試験当日は緊張でお腹が緩むタイプ。お弁当を持たせたが、帰って来るまでヒヤヒヤした。過敏性腸症候群なのだろう。男の子には多いのだろう。
でも、よく頑張った。結果も会場まで見に行きもせず、パソコンで知った。キッチンにいた私は、初めて息子のガッツポーズを見た!
大学の入学試験は人生の大きな分岐点。その後の就職、も大きい。しかし、今思うのは人生に一番大きく影響するのは「結婚」ではないかと。
まあでも、その途中の大きな人生の通過点を、見事に自力で突破したのは、息子を褒めてあげないといけない。母親の私はただ笛を吹いただけ、踊ったのは息子。
工学部に行っていたら、また彼の人生はどうだっただろうか?ついいつもの悪い癖が頭をよぎる。
いやいや、人生一度きり!これでいいのだ!人生は「今とここ」しかないのだよね。
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