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確率50% がん

子宮頚部がんのできる位置
 公益社団法人 日本産婦人科学会のHPより

今は2人に1人が、がんになる時代。確率二分の一、50%である。
私が42歳で子宮頚部腺がんの告知を受けた21年前2000年は、まだそういう言われ方はなかった。

もっと深刻に、命を落とす、治らないかもしれない病気という受け止め方だった。この20年近くで、がんに対するイメージも随分変わったように思う。

今は、子宮頚がんは20代、30代に増えているそうだ。出産したい女性が出産できなくなったりと非常に女性にとっては大事な臓器なので、予防第一、早期発見早期治療を願うおばさんです。

私のがんの経験談と、予防できるだろうことを書いてみたいです。知識にしてくださると嬉しいです。
 
40歳になって半年過ぎた頃、気になっていた症状で、出産以来足が向かなかった近くの産科・婦人科へ行った。その症状は、帯下(おりもの)が水っぽくなり、ショーツにナプキンが欠かせなくなった。

しかし、細胞診では「異状なし」、医師は「子宮口にびらんがあります。経産婦はたいがいの方があるのであまり心配いりません。」ということだった。

私は40代になると身体も変化するのか~と、安心してしまった。「子宮筋腫もありますから、半年後にまた検診を」という医師の言葉をすっかり忘れてしまった。

42歳になった夏、排便時不正出血があった。そして、前年の冬から異常に寒がりになった。腰が冷える、頭痛がするようになる、便秘になるなどの変化もあった。

これで、再度婦人科受診せねばならないことを確信し、受診。2週間後の結果は「疑わしいが経過観察」。医師は子宮筋腫があること、子宮口にびらんがあるが、経産婦には多いから心配ないとのこと。

その、「びらん」が実は腺がんだったのです。

しかし、その10日後排便時、再度不正出血。再度同婦人科受診する。結果は前と同じ「疑わしいが、経過観察」。多分、細胞診クラスⅢだったのだろう。

不正出血は少しづつ続いていた。これはもう夫と一緒に行ってもらうしかない、と中々休みも取れない中、夫に午前だけ休暇をとってもらい一緒に婦人科へ。

この時に、夫が医師だったせいか、「2回、疑わしいと出ているのですから、組織診もお願いします」と言った。

「痛いけど、大丈夫ですか?」と婦人科医師。「仕方ありません、大丈夫です、お願いします」と私。子宮頚部の表面と奥、子宮体部の横と奥の4か所の組織を採取された。かなり出血した。

2週間後、結果は私にではなく、夫の職場に電話があった。診断がついた。「子宮頚部腺がん」だった。

頚部腺がんは当時は10人に1人くらい。今は10人に3~4人が腺がんだという情報を聞く。頚がんには「扁平上皮がん」と「腺がん」がある。腺がんは放射線が効かない。予後も腺がんのほうが悪いと聞いて、ガ~~ンであった。

それからは夫の行動は早かった。私に告知するや否や、治療する病院決め。私の手術、入院期間中、誰が息子の世話をするか等その夜話し合った。

結局、夫は自分の勤務する病院での手術、入院に決めた。自分が出勤するのだから、私の様子は見られる。

日中の息子の世話と夫の食事作りは、私の実母に応援に来てもらうことを了解してもらった。あいにく、息子は中学受験で塾通いの真っ最中。

それがどうなるか、諦めるかも考えたが、母に頑張ってほしいと懇願した。

告知から手術までは、とてつもなく早かった。MRIの検査でがんが比較的大きいことがわかっていたのだ。夫は色々な患者さんを見てきた身、大体の予測はついていたのか、何か悲観的な表情が増えた。

もし、夫が医師でなく、あの時に一緒に受診して、組織診をしていなかったら・・・。「3か月後の経過観察です」と言われただけに、そう思えて仕方がない。

手術は7時間くらいかかったらしい。夫は心情的に術場には入れなかったようだ。

私は麻酔が効き始めていたが、手術室から「〇〇君も入る?」という問いに、夫は「いや、結構です」と答えていたところまでは記憶がある。(当時の傷は今もお臍を迂回して縦に30センチくらいある。今は腹腔鏡の時代だろうか?)

それから目が覚めたのは1秒後くらいの感覚だった。ICUに5日もいた。スパゲティーのように、あらゆる管が挿入されている状態。

執刀医が来て「〇〇君、動け!」と仰る。そんな~、管だらけで動けるわけがない。「動かないと、腸が癒着するから、少しでも動け」と。ベッドの柵を握って動く努力をした。

普通の4人部屋に移れた時にはホッとした。後の3人は卵巣がんの患者さんだった。私も卵巣がんの患者さんと同じ抗がん剤をするので、先生の配慮でここに入ったのだと後でわかった。

術後3週間目には1回目の抗がん剤(タキソールとカルボプラチン)だった。2週間後、髪の毛がごっそり抜け始めた。(下写真。この後、丸坊主になりました。3回目の抗がん剤が最後だった)

髪が抜け始めた当時のowl

それと同時に尿管が外され、排尿訓練が始まった。なにしろ、自力では最初一滴も尿が出なかった。ナースセンターまで、排尿カップを持って、看護師さんに導尿してもらって出していた。焦った。

私が一番劣等生だった。水の流れる音や川のせせらぎ、雨音などを必死に想像しながら、膀胱辺りを押さえる。出ない、出ない3日は完全に出なかった。焦りで涙が出た。

そしてついに一滴目が出た時の嬉しさ!!頑張ってその時は膀胱辺りを押し続け、少し出た~。泣きながら、看護師さんに残りを導尿してもらう。恥ずかしさなど通り越していた。

それからは、少しづつ要領を得て出せるようになっていった。だけど、残尿が50mlにならないと卒業させてもらえない。最後まで一番遅い劣等生だった。

3か月半の入院を終えて、息子と夫と母が待つ我が家に帰れた。途中、息子の受験は4校受けて、第一志望だけ落ちていた。

息子の希望する中高一貫に決め、「普通の生活はできない」私のために戸建てから、便利な場所の新築マンションに引っ越した。激動の半年だった。

私の闘病生活を支えてくれた、亡き夫、息子、今88歳になる実母、色々お世話になった妹夫婦には感謝しかない。私の今の生存は、この時の総動員の支えがあってのことである。

今闘病中のがん患者さん、ご家族の方々、大変とは思いますが、笑顔になれる時も来ます!!
どうか、頑張りすぎず、でもやはり頑張ってください。心より応援しています。

そして、予防、これに優る治療はありません。子宮頚がんの場合は、コロナワクチンと同じ形状のmRNAの子宮頚がん予防ワクチンがあります。

副作用を恐れて、日本ではあまり接種されなくなったと聞いています。若い女性、また男性も接種してほしいです。

子宮頚がんはありふれた病気になりました。それでも、ならないほうがいいです。どうか、私の経験談が役に立ってほしいと切に希望します。

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