未亡人で病気持ちでもおひとりさまを楽しく生きる!

「人生は暇つぶし」だと思いますか?

「急にどうしたの❔」と思われますが、一昨日の夜間尿意で目が覚めて眠れなくなった時に、20代後半、夫が言った言葉が頭に降りてきました。

35年以上も前、夫も私もまだ20代後半で、息子もいなかった頃、ふいに夫が「人生は暇つぶしなんだよ」と言ったのでした。

私は、「そんな言い方好きじゃない。能動的に生きていない気がする。そんな考えで生きるなんてよくないと思う」と反論したことまでは覚えています。

彼は学生時代、まだパソコンもなく、実によく本を読んでいたようです。それに比べ、私は本を読み足りない、「ノータリン」な女でした。

言った夫が亡くなって久しく、私はシニアの歳を迎えた今ごろ、「人生は暇つぶし」について考えました。

パスカルの言葉と知ったのはつい最近 今は流行らない哲学っぽい

「人間は考える葦である」とパスカルが言ったというのは有名すぎるくらい皆知ってる言葉。

そのパスカルが「人生は死ぬまでの暇つぶし(気晴らし)である」とも言ったそうなんです。

名前だけは聞いたことのある『パンセ』という著書で。その後は以下に続きます。

「趣味に打ち込むことも仕事もない状態で、じっと部屋に閉じこもっていれば気分が沈んでいく。人間は何かに熱中していないと生きていけない生物だ。人間が何かに熱中するのは、やがて訪れる死の恐怖から目をそらし、死を忘れるためなのである」

「生涯において最も大切なことは職業の選択である。しかし、偶然によってそれは決まる」

とも言ったそうです。

思うに、人間は生まれたら必ず死ぬのだから、その間は真剣に「生」に向き合っている証拠ではないでしょうか。

生まれ落ちた時から、記憶にあるなしはともかく、様々なことに熱中したり、後悔したり、一喜一憂します。後悔や葛藤は、時に自分の精神や存在すらも危うくさせる力もあります。

何故人間はわざわざ暇をつぶさないといけないのでしょうか?人生が「暇」というほど必要のないものだったら、何故さっさと死んでしまわないのでしょうか?

それはきっと、人生が単なる「暇」なのではなく、どこか手放しがたい重要な時間だと感じているからではないでしょうか。

人生こそ人間が真剣になる対象なのであり、真剣になり過ぎるがゆえに後悔や葛藤を抱いてしまいます。

「人生は暇つぶし」とはそんな真剣すぎる後悔や葛藤を「そこまで熱くなるほどのことではない」と皮肉り、収めて、自分をいさめるための「言いわけ」ではないのかしら。

ホリエモンやひろゆき氏がよく口にしているのを知ってはいます。裕福になり、仕事をしないでも生きていける人が口にする言葉のように思えます。

しかしながら、この「人生は暇つぶし」をしょっちゅう口にする人は、実は結構真剣で暇ではない人たちなのかもしれません。

そして、人間は必ず死にますが、死の間際まで何が起こるかわかりません。真剣な夢や職業もはかないものだと思うのです。

そして、「生涯において最も大切なのは職業の選択」であるとも私は思わないのです。どんな人間関係を築けるかが最も大切なことだと思うようになったのです。

こんなことを書いても、今は哲学が全く廃れて流行らない時代。実学、即お金になる学習のみがもてはやされています。

何の意味もないことを承知で、私なりにパスカル先生の言葉を、この歳になって解読してみようと思ったのでした。

答えはそれこそ「人それぞれ」なんだろうと思います。お聞きしてみたいものです。

これを言った夫と、追いついた今話しをしたかった

お互いにまだ20代と若かったあの頃、何故夫はそんなことを口にしたのかを知りたくてたまりません。

どう考えても裕福でもなく、仕事をしないと生きていけなかった、あの若い頃。

夫は粋がって、パスカルの言葉を口にしたに違いありません。全くノータリンの私に向かって。

それほど、彼は愚直に「生」に向き合い、自分の人生こそが真剣になる対象だったのでしょう。死を恐れ、熱く生きていたのかもしれません。

私にどういう回答を求めたかを知りたくもあります。当時は全く言葉をそのままにしか受け止められない未熟者でした。

今だったら、お互いにどういう話しに落ち着かせていたか、やはり夫の不在は虚しいの一言です。

何も考えずボーっと生きていた妻に、「人生は暇つぶし」と口にしてから、十数年後には死を迎えているのですから、人生なんてわからないものです。

短時間の間に人の2~3倍もの仕事をして、パタっと生を閉じてしまうなんて、あまりにも潔すぎませんでしたか?

暇をそんなに急いでつぶす必要がどこにありましたか?

夫が生き急いだ分、私は1人の人生を長く生きることになりましたから、「人生は暇つぶし」を実感するときもままあります。

が、現実の私の生活は、取り替えのきかないポンコツの身体をたずさえて、日々黙々と家事をし、時には気晴らしに出かけ、楽しみをみつけようとしています。

暇があるかといえばありますし、忙しいともいえますし、1日が30時間あればなどと思ったりもします。私がいてもいなくても、大勢には影響はありません。

いなくてもいいのですが、生かされて生きています。これからも生かされている間、生き続けるでしょう。続けることの大事さはもう十分に知りえた年齢になりました。

こんなことを話題にすることこそ、暇があるということでしょう。そして、「暇つぶし」をまさにしているのでしょう。

考えても結論の出る問題ではないところが、無駄ともいわれるゆえんでしょうね。

哲学を毛嫌いする息子に話したら、「そんなこと考えたって時間の無駄。論破しようとすること自体どうでもいいこと」と一蹴されるでしょう。

夫の子とは思えない子に、私は現実世界のことを今は教えられ生きています。それでいい、あなたは若いころは考えすぎでしたよ。

もう少し肩の力を抜いて、熱くならず、チャランポランに生きて、生き続けてほしかったですね。

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