3.12(日曜日)に息子と車で、実母の施設へ私は初めて行ってきました。
別人かと思うほど痩せて、車椅子で看護師さんに連れてこられた母との面会。
息子のことも、私のことも、妹のことも他の何もかもを忘れ去っていました。
父のことも一言も言いませんでした、これが認知症ということ。
認知症の症状は昨年から きっと母自身が招いた孤独の中で
面会室で待っていたら、看護師さんが2階の母の部屋から車椅子で連れてきてくれました。
最初に見た時は、「えっ、誰? あれがあの母?」というほど風貌の変化に驚きました。
今の若い看護師さんが昨年10月半ばから担当になった時にはすでに認知症があったということ。
入れ歯もできないようで、口は開いたままでした。
点滴棒からは、右手に点滴の管が刺さったままです。
コロナで入院している間に、認知症も酷くなり、今の状況にまでなったようです。
今は頑固に普通食を受け付けず、甘いプリンやチョコレート、ゼリー、甘い飲み物しか飲食しなくなったそう。
これもコロナ罹患後特に顕著になったそうです。相当苦しかったのでしょう。
母に会うのは、父が亡くなった翌年2015年、やや戻りかけの体調の冬に父のお墓参り以来ですから8年ぶりです。親不孝ですけど、仕方ないのです。
息子は2019年夏に入所した母に、11月に1人で面会に行ってくれています。
息子は、「あの時はまだまだ気丈で、洋服を取りに家に泊まらせられて、車で送ったよ。冷蔵庫もねだられた。元気だったよ。ちょっと変化が早すぎる気がする」と言いました。
自慢話ばかりして、本性を見抜かれて友人と思った人たちも去っていき、面会に来てくれる友人も、所内の友人も減っていったのではないのかなぁ。
2013年に、私に恐喝とも思える言葉と態度を残していった母。
母との2か月半の同居で心身が疲弊していた私は、最後の母親の言葉と態度にショックを受け、近寄れなくなりました。
それが「パニック障害」を起こすきっかけになったことは明らかでした。
いつものあの口の悪さと、自画自賛の話しには皆さん引くはずです。
妹夫婦だけが、月1回くらい訪ねてくれていたのでしょうか。
「自分にはお金がない」を繰り返し いい認知症の現れ方に安堵
15分が1時間の面会になり、こちらは大声で話しかけるも、自分でしゃべりまくるだけの母。
疲れが出てきて、看護師さんに申し出ると、母の部屋まで案内してくれました。
2階の部屋では、トイレを使った形跡はなかったし、トイレには紙おむつのパッケージが積まれていました。
排泄もすでに紙おむつになったんだと後で気がつきました。
父の作ったステンドグラスのランプが1個だけ(あまり入念なものではない)あったのは意外でした。
ベッドへも看護師さんがひょいと抱えて移動させてくれました。枯れ木のように痩せています。
1時間もの間、小声でしゃべり続けた母の話しは、何度も同じことを言い、潜在意識層にあった気持ちが言語化されたんだろうと推測できました。
母が何回も言った言葉は!
「子どもは多すぎるとよくない」「ヤスミチ(母の弟2019年秋没)が死んだ」「お金がないのが一番つらい」「お母さんが一番お金がなかった」「ヒトシ君(妹の夫、イケメン)が・・・」「唐津(カラツ)に行った」「冷蔵庫に何もない」など。
認知症になってからも「お金がない」と言ってたのが息子も私も印象的でした。
人生の最初から最後まで「お金」しか頭になかった人だったんでしょう。反面教師にしないとですね。
ただ看護師さんの言葉に救われたのは、「いい認知症の症状です」ということ。
あの口が悪かった、自己中心の母親が、ほぼすべてを忘れて、丸くなり悪口もなくなったこと。
看護師さんたちにも「ありがとう」と言うように。救いはそれだけです。
そうでなければ、私は息子と一緒でも会いに来れなかったでしょう。
今まで散々人の悪口や、結局はバレる嘘ばかりついて生きて来た人が、終わり近くで「丸く」なるんですから、母の場合「認知症」も悪くはないのかもしれません。
一生懸命お世話をした妹はさすがにショックだろうと思いました。
私は妹夫婦には頭が上がりません。よくやってきてくれたといつか伝えないといけない「感謝」の気持ち。
母は私たちが帰る時に、「また来てね、寂しい」と言いました。そこはつじつまが合っています。
でも、私はまた来たいとは思いませんでした。施設のお雛様と母と息子と私、3人で写真も撮っていただきましたから。
あんな母でしたが、看護師さんの言葉で会う力が出て、息子も休みをとれて一緒に行けたのは、よかったとしか言いようがないです。
2日経った今日は、ショックも落ち着き、今があることに感謝して、「毎日楽しいことを探して生きたい」と強く心に刻みました。
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