あの「片づけ」で有名になった近藤麻理恵さんが、片づけを諦めたらしい。
3人のお子さんの母親になったら、そりゃぁ、片づけなんて優雅なことは言ってられないでしょ。
片づけより優先順位の高い育児が目の前にある。当然です。
片づけを諦めた 近藤麻理恵さん
あれだけ「片づけ」を世界に知らしめ、「トキメキ」がないものを次々に捨てて行くことを教えていた彼女ですら、育児の大変さには「片づけ」を休まざるをえなくなったわけです。
有名な彼女の本も一応買って、実践はできなかった私も、片づけることは素晴らしいことはわかっています。
しかし、生きていたら欲望というものがあります。
彼女もお子さん3人授かったというのも、子どもとモノでは違いますが、欲しかったという欲望には勝てなかった人。
安心しますね、彼女も普通の女性だったわけです。
子どもが増えれば、独身の時に比べて、時間と労力が格段になくなります。
彼女が「片づけ」に専念できて、本まで書けたのは「独身」の時。結婚してもお子さんがいなければ、片づけに専念できるでしょう。
また、子どもの数が増えれば、それだけ時間はなくなる、労力は増える、子どものモノは必要になる。
優雅に「片づけ」なんて言っていられないのは当然のこと。
そうは言っても、少ないモノで暮らすこと、綺麗に部屋が片づいていることは素晴らしく気持ちがいいものでしょう。
でも、人それぞれでいいのではないかと私は考えます。
少し散らかっているくらいが普通でもいいじゃないですか。
溢れるモノに囲まれて幸せに仕事をしている人がいてもいいわけで。
近藤さんは、トキメキを感じてご結婚され、トキメキを感じてお子さんをもうけられ、それが今は単にトキメキをかつて感じていた「片づけ」と相反する生き方になっただけ。
トキメキを感じなくなったら、彼女は旦那さんも捨てるのでしょう。え、お子さんも?!
そこまではさすがにないでしょうけど、あの片づけ・捨て方には、極端すぎるものを感じていました。
アメリカで流行ったのは当然 物欲の国、広い家の国アメリカ
アメリカで近藤さんは、2015年には「世界で最も影響力のある100人」に選ばれています。
アメリカはまず土地が広い、家が広いという日本とは全く違う環境があります。
そして、以前は消費することが美徳のような、アメリカ人特有の文化があったように思います。
家が広いとモノがたくさん置けます。車社会ですから、大量に買い込んでも、広い家に収まるんです。
子どもの数も増え続けているようですから、子どものモノなども増やしてしまいます。
そして、中国製のモノが大きなショップにずらりと並んでいるのです。
欲望をかきたてられるモノ、食べ物に溢れているアメリカ。人間には欲があるんです。
「お買い物」に「トキメキ」を感じてきたアメリカ人は、ふと気がつくとモノで溢れた散らかった部屋、家に住んでいることに気がつきました。
それを気づかせた近藤さんは、一躍時の人になりました。
「こんな生き方があったのか」との気づきが、アメリカだからこそ大きく取り上げられたのでしょう。
もう今までの「大量消費」から抜け出て、少ないモノ、心ときめくモノだけで暮らそう、整理整頓することに気がついたってわけです。
ときめき=spark joy と翻訳されたそうです。
「spark joy」を感じないモノは選んで、選んで、捨ててしまおうというメソッド。
一時的にはアメリカ人の生き方にも、多大なる影響を受けて、捨て続けた人も多いのでしょうね。
しかし、人は生きている間に、そんなに欲望を抑えることができるでしょうか。
「捨てる」には惜しい「思い出」のあるモノも数々あるはず。
「トキメキ」と共に、「思い出」=「過去ではあるけど捨てがたいトキメキを感じる」もあるんです。
生きている間は、ミニマリストを目指さなくていい
私は中々捨てられない女です。
それが、2019年の断捨離で、増えて手に負えなくなったモノを思い切って捨てました。
リビングのソファまで。友人を呼んでも、ダイニングテーブルでしか結局話しをしない日本人。
広い戸建てからマンションに越して22年、狭いリビングルームに大きなイタリア製のソファは確かに邪魔でした。
物置きと化し、洗濯物や帰宅時の服を置いてしまうことが常態化していました。
ソファは捨てても、私は困りませんでした。若い頃の服も捨てて正解でした。
が、困ったものもあるんです。趣味でやっていた道具の数々。その時は「もうやらない!」と思ってました。
しかし、思ったより長く生き続けていると、「ああ、あの時捨てなければよかった、思い出の品だったのに」と思うこともあります。
人間は生きている間は、欲望がありつづけるほうがイキイキするのではないでしょうか。
勿論、買うものには取捨選択は必要です。
他人から見たら「しょうもないもの」でも、その人には大切な思い出のモノかもしれません。
特に私たちより上の世代、K子叔母などは「絶対に捨てるなんてできない」と言います。
モノの少ない戦時中に子ども時代を送った方たちは、「捨てる」ことが不得意なようです。
私はそれでいいと思います。
生きていたら、欲がある限りモノやお金がほしいんです。それがむしろ「健康」なんです。
モノより「体験」にお金をかけることのほうが素晴らしいことはわかっていても、それができない人もいます。
ずっと「旅行」に行き続けられる人がどれくらいいるでしょうか?
モノは手っ取り早く「欲望」を満たしてくれるのです。食欲と同じです。
食べ過ぎては、ダイエットを繰り返す人も多いです。モノを買い過ぎて後悔する人も多いですが。
そして、日本の家は狭く、片づけられなくなって、面倒になって「汚い部屋」に住むことになったりします。
が、私は衛生的なことさえ最低限守られていれば、多少散らかったモノで溢れた家のほうが親近感がわきます。
あんまり、綺麗に整理整頓された家に招待されると、何か居心地が悪くなることもありました。
「ミニマリズム」も今の一時的な流行りです。流される必要はありません。
欲があるから人間でいられるのです。モノが少しくらい多くたっていいではないですか。
片づけられない自分も肯定しています。
あの頃流行った「ミニマリズム」に流されなくてよかったと思える時も必ずくるでしょう。
全ての人がモノを買わなくなる社会では、資本主義すら成り立たなくなるはずです。
アメリカ人の旺盛な消費欲があったからこそ、あの国はあそこまで成長し続けているのだと感じます。
不要なモノまで買う必要はありませんが、必要なモノは買い、生きている間を楽しく過ごしたい!
片づけられないけど、死んだら、私のモノは全て捨ててもらって構いません。
子どもがいるから、息子には面倒をかけるでしょう。息子にはすでに言っています。
「私が死んだら、あなたがいらないと思ったモノは全て捨ててほしい」と。
お子さんのおられない方は、どなたかに託さないといけませんが。
私はあえて「ミニマリスト」にはなりません。片づけも適当です。
それが私の「生きている」ということに繋がります。
思い出と共に生きている人もいていい、そう強く今は思います。
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