未亡人で病気持ちでもおひとりさまを楽しく生きる!

茨木のり子さんの詩集 「倚りかからず」「歳月」

「倚りかからず」 

もはや 

できあいの思想には倚りかかりたくない

もはや

できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや

できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや

いかなる権威にも倚りかかりたくない

ながく生きて

心底学んだのはそれくらい

じぶんの耳目

じぶんの二本足でのみ立っていて

なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば

それは

椅子の背もたれだけ

 

この詩を読んだ時はまだ夫を亡くしてから7,8年目だったと思います。

同じ未亡人の友人が贈ってくださった本。大事に時折、今も開く機会があります。

この「倚りかからず」の詩にはことに衝撃を受けました。こんなふうに夫との死別を表現なさる感性。

あまりの作者の強さと悲しさが凝縮されているようで、胸にぐっとくるものがありました。

私にはどんな言葉でも表せない、そんな詩。

これを書いた時には大先輩の彼女は古稀を超えておられました。

49歳で夫を亡くされ、お子さんのいない、詩人。

我が身を振り返ると、夫と死別して20年間、ありとあらゆるものに寄りかかってきました。

だから、この詩を読むと、同じ死別者として恥ずかしくなる思いと、彼女の1人でもどこまでも強い芯を感じ恐れ入るのです。

だんだん歳を重ねて、病身でもある私は、とても彼女のように毅然とは生きられない。

私は凡人、仕方ないことです。彼女には常人ではない強さを感じ、颯爽と美しくすら感じられます。

私だって、倚りかかるとすれば、椅子の背もたれだけにしたい。

でも、それでは身体が立ち行かない。彼女は健康でもあられたのです。

そして、最期は誰にも看取られないまま、お1人でくも幕下出血で亡くなられていたところを、親族に発見されておられます。

なんという潔さ!生き方も美しければ、死に方も美学をお持ちだったかのような。

とても真似はできないけれど、大好きな大先輩なのです。

同詩集に「時代おくれ」という作品もあります。

「車がない ワープロがない ビデオデッキがない ファックスがない パソコン インターネット 見たこともない けれど格別支障もない」から始まる。

彼女が生きた時代には、もちろんスマホもなかった。今、ご存命でいらしても、彼女はこういったものには無関心だったかもしれません。

日常生活がみてとれるこの一節から、私たち普通の人間の「時間」とは違った「時」の世界を生きられたことを伝えておられる。

次の一節は「行ったこともない シッキムやブータンの子らの 襟足の匂いが風に乗って漂ってくる どてらのような民族衣装 陽なたくさい枯草の匂い  何が起ころうと生き残れるのはあなたたち まっとうとも思わずに まっとうに生きているひとびとよ」で終わっています。

便利なツールにまみれた現代の私たちを、彼女は愚者だと言いたかったのでしょう。

本当の賢者は、自らが賢者と意識することなく、ただ生きていると仰っていると思います。

他にも感動する作品はありますが、彼女の鋭い、見えないものを感じる才能を堪能したい方は、是非文庫本がでていますので、手にとってください。

「歳月」

茨木さんは、1975年5月にご主人に先立たれておられます。それから31年の間に40篇近い作品を書き溜めておられたそうです。

しかし、生前には公表されませんでした。親族が何故かをお聞きしたら、一種のラブレターのようなものだから、照れくさいというお答えだったそうです。

この「歳月」には、そのような彼女の夫に対する感情が溢れに溢れた作品集となっていると思うのです。

「ひとり暮らし」

「1人では 生きてゆけないように どうも人間はなっているらしい」 から始まって、途中略、最後は

「手鏡をひょいと取れば そこには はぐれ猿の顔 ずいぶん無理をしている 寂寥がぴったり顔に貼りついて パック剤剝がすようにはいかなくなった さりとて もう ほかの誰かと暮らす気はなし あなた以外の誰とも もう しかたがない さつまいもでもかじりましょう」

で終わっています。

これには20年を過ぎた今の私の気持ちを、まるで言い当ててくださったような感覚があります。

これを読んだのは2008年以降だったのですが。

彼女と生きている時代が少し違うし、子どもの有無も違うので、繊細さは彼女ほどではないですが、「はぐれ猿の顔」と「さつまいもをかじる」様があまりにも似ていて、少し笑いました。

そして、題名にもなった「歳月」

 

真実を見きわめるのに

二十五年という歳月は短かったでしょうか

九十歳のあなたを想定してみる

八十歳のわたしを想定してみる

どちらかがぼけて

どちらかが疲れはて

あるいは二人ともそうなって

わけもわからず憎みあっている姿が

ちらっとよぎる

あるいはまた

ふんわりとした翁と姥になって

もう行きましょう と

互いに首を絞めようとして

その力さえなく尻餅なんかついている姿

けれど

歳月だけではないでしょう

たった一日っきりの

稲妻のような真実を

抱きしめて生き抜いている人もいますもの

 

彼女のご主人に対する愛と、喪失の悲しみをここまで表現できる、なさった感覚。

悲しみを生き抜いた言葉としか思えません。

決して表面には表されはしなかったのでしょう。ひょうひょうとお1人で生きておられた風で、その心には悲しみが貼りついていらした。

どれだけお辛かったことでしょうか。

私も夫を思わない日はないし、こういう思い、一緒に歳をかさねられたらと想像することはあります。

だけど、日々の生活に追われていて、現代のITツールにも囲まれていると、日常夫のことは忘れていることも多々あります。

どんなにかご主人への愛が深かったのか、喪失の悲しみを抱えて1人で生き抜かれ、見事といえる亡くなり方。

そして、残された作品の言葉たちに、圧倒されるのです。読み返すたびに。

韓流ドラマにハマってしまった私でも、時折彼女の詩集を開くときもあるのです。

夫に会いたい、無性に会いたい、こんなお婆さんになったけど。

仏壇のあなたは若いまま。もうすぐ春のお彼岸、また涙する季節です。

他の作品も、どれも秀逸です。死別された方にはご一読を特にお勧めいたします。

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