団塊の世代とは厳密には1947年~1949年に生まれた世代のことを指す。
だが、1951年生まれまでを指す場合もあるそうだ。団塊の世代
冒頭の北山 修氏は1946年生まれだからギリ入らないのか?
なぜ今日はこのような話題かというと、
数週間前からキッチンに立って調理時に、
「戦争を知らない子どもたち」という歌が頭に降りてきていた。
そして、1番の歌詞は歌えてしまった。作詞が北山 修氏。
一昨日のひと回り年上のB弁護士と打ち合わせで2回目に会った時、
年齢の話しになり、「先生は団塊の世代ですね」と言ったら、
先生は否定しなかった。
だから、北山 修氏と同じ年齢と知って私の中で、
何かが繋がった。ジローズの歌↓(3分)
今年はお盆に終戦記念日の映像も見たからだろうか。
私は団塊の世代より10歳くらい下だから、
この歌が流行っていた1970年代は中学生から高校生になる頃
だったと思うからうろ覚えでもおかしくはない。
ただ「戦争のことをこんなにも明るい歌に仕上げたんだ」
といった感情がどこかにずっとあった。
マンション友Uさんも10歳年上、日本の好景気も低迷期も
両方を知る団塊世代。
「私たちがな~んも考えずに生きて来たんだ」とこの前言った。
私は好景気は結婚がハデ婚だったことだけ覚えている。
渦中にいるとその時が好景気だったのかはわからないものだ。
振り返って過去になった時に、「あ、あの時が」となる。
だから、曲がりなりにも好景気と低迷期の両方を知る世代
と言えないこともない。
その団塊の世代が来年ですべて後期高齢者になるのだ。
戦後79年、来年は戦後80年になる。そりゃ、そうだ。
歳月は過ぎて、人は皆平等に歳だけはとる。
私はまだ前期高齢者だが、すでに介護保険を利用している。
これではいけない、という思いが強くなった。
「要支援1」でもヘルパーさんを必要としない暮らしに
戻らねばと気が引き締まる。
8月に見回りに来られたケアマネさんには、
「焦らなくても、ご自分のペースでいいと思います」
と言ってもらえた。が、自立していなければね。
もう少し遅かったら死んでいたかもしれない身を今まで
生かしていただいているのだから、頑張らねばと思う。
後期高齢者の医療費がこれから急速に膨張していくんだろう。
日本の行く末を案じていても、地球上では今も戦争があっている。
同時に「花はどこへ行った」という有名過ぎる反戦歌も蘇った。
うろ覚えに歌えるから、つい歌ってしまう。↓(3分)
よく歌詞を吟味してみると、戦争は繰り返されることを
予言しているような歌。
メロディーは寂し気だが、英語なので気にせず歌っていたら、
ある時ハッと世界一有名な反戦歌だったことを知った。
今日は雨模様、少し気温が下がったがわずかだ。
天災だけでも人間はもろく命を落とすのだから、
人為的な戦争などしている暇はないのに。
争うことも人間の「性(さが)」なのだろう。
拙い日記をお読みいただき有り難うございます。感謝ですm(__)m
コメント
アウルさん、お邪魔します。
こちらのブログはときどき訪問させていただいております。
ところで、この文中にある北山修氏ですが、1976年ではなく1946年のお生まれではないでしょうか?私も若い頃から北山さんの詞に心惹かれることが多かったです。芸能活動を退かれて心理医療関係に進まれたように覚えています。
ところで、私のブログに残してくださったアウルさんのコメントに長らく気づかなくてごめんなさいね。私は現在、個人的な事情に振り回されていて、あまりブログに注力できないでいます。
アウルさんにはお体のご事情をお抱えのようですが、どうかくれぐれもご自愛ください。
露草さま、こんにちは。
ご指摘、ありがとうございます。
間違えていますね、1946年生まれでおられます。
これから訂正いたします。
北山氏は、こちら九州の大学で長らく教鞭をとられておりました。
今はどこかの大学の学長をなさっているようです。
露草さんはお忙しいのですね。
暑さも長引く中、台風もきております。
私も術後の経過をみているところです。
露草さまもご自愛専一にお過ごしください。
イラン-イラク戦争当時(知っている人はもういないでしょうね)、
戦線から40kmのイラク側の液化天然ガスプラント(イランの攻撃目標です)で
仕事をしていました。
ちょうど、同期はイラン側にいて発電設備の建設に従事していて、部下がイラクの
スカッドミサルで重傷を負いました。
戦線まで15kmのイミグレーションオフィスに行った時、一緒のフランス人に
イランに向う車線は、凸凹(戦車を載せたトレーラ、軍用トラックが頻繁に走るので)なのにイラン方面から来る反対車線は、真っ平、片道切符だね と話しました。
時々、会っていた日本人(複数)は、
戦線から10kmにもならない所で、仕事をしていました。
私のいた所は、後に髭の隊長(参議院議員)が設営した近くでした。
派遣問題は別にして、自衛隊隊員の安全が国会で論議されていましたが、
サラリーマンは、自衛隊隊員より、何倍も危険な所(戦線から10kmにみたいない、
イラン側にいた同期)で、仕事をしていたんですね。
爆弾、砲弾、ミサイルが飛び交っても、悲惨・凄惨な状況でも、それらを分かっていても
現実として、人間はそこでその状況下で生きていかなければならない、
生活の糧を得なければならい ウクライナ、ガザ、その当時の我々 など
歌でいくら戦争反対を叫んでも、あまり意味が無いと思う。
死より、食べるていくこと=今を生きることが先という事か・・・・・・
地平線いっぱいの砲撃の閃光が広がり、砲撃の地響きの中で、
サラリーマンをして生きていた時に思ったことです。
鈴木さま、こんにちは。
私のような主婦業だけしていたニンゲンには到底真の理解は不可能なお話しです。
鈴木さまが、お若い頃そのような危険な戦争の間近でお仕事をなさっていたこと、
お話しくださり有り難く思います。
自衛隊より何倍も危険な場所でのお仕事だったのですね。命がけのお仕事。
それは、国策に関するような民間企業にお勤めだったからですか?
鈴木さまのご年齢も存じませんが、66歳の私より上でいらっしゃいますか?
私はほぼ30年前アメリカにおりました時に、おそらくイラン・イラク戦争の
退役軍人の施設・病院があったことを知りました。
軍役だった方々も後の人生を大きく狂わされていたようでした。
鈴木さまがご無事で帰国され、今はそらちゃんと平和にお暮しなのは真に幸いです。
生命の新陳代謝で人間も時代によって入れ替わる、そうしてまた戦争を起こす。
過去から学ばず繰り返すのは、真っ新で生まれて来るからどうしようもできない。
反戦歌はせめてもの、戦争直後の人間たちの心の表現に過ぎないでしょう。
政治家でもない一般人は、日々を懸命に生きる、ただそれだけなのだと思います。
鈴木さまの体験談はとても重要なことと心に残り、それを潜り抜けてこられた
生命力にただただ敬服いたします。