未亡人で病気持ちでもおひとりさまを楽しく生きる!

手術の日 この日があるから今がある/執刀医の面白かった言葉

にほんブログ村 シニア日記ブログへクリックいただけると嬉しいです

22年前の今日、子宮頚部腺がん2b期の広汎子宮全摘出術を受けていました。

午後1時から7時間ほどかかったようでした。あの日があるから、今日があります。

それから約3カ月半入院しました。家が遠かったので、まだそれができた時代でした。

執刀医と夫に感謝しかない 手術記念日

10月30日、嫌そうな母に付き添われて午後に入院しました。

執刀医は忙しく、インフォームド・コンセントはギリギリの31日夜9時の消灯後、部屋に呼ばれてでした。

そこで執刀医(主治医)から、「術後は普通の生活はできなくなる」とハッキリ言われました。

ガビーン!!「普通の生活ができないってどういうことですか??」

「今までのように車を運転して、子どもの送り迎えをしたり、重いものの買い物ができなくなる」と。

そんなことを明日が手術という前の晩に言われて、相当ビビッてなかなか眠れないまま11月1日に

朝食だけ食べたでしょうか。お昼は食べられず、4人部屋の3人に見送られてストレッチャーに

この頃から軽い麻酔が効いてきていたようでした。手術室までエレベーターで運ばれました。

そこでほぼ裸体に近い状態で横向きになり、背中に麻酔が打たれるまで記憶があります

どこからか夫も来ていたようでした。夫は手術室には入らないと言ったのは聞きました。

ステンレスの台が移動して手術室に入ったようでした。

手術時は、足を高くして広げた間に執刀医が入ってからの手術だったのか?横からだったのかは今もわかりません。

1秒後くらい(に感じた)に目が覚めた時には、口には酸素マスクをつけていました

午後9時過ぎ、夫は私が1回覚醒したのを見届けて帰宅した後でした。集中治療室です。

すべてがチューブで繋がれていて、口が乾いていました。

看護師さんの「何がしたいですか?」の問いかけに、「おしっこがしたいです」と答えました。

尿意などスッカリ消えているのに、何故か尿意があるような、おしっこに行かないとという思いでした。

何も飲めないので、看護師さんが時折「氷」を口に含ませてくれました

看護師さんのバタバタと走る足音と、手術を終えた患者たちのうめき声、カンカンとベッドを鳴らす音で眠れる状況ではありませんでした。

水曜日の手術でしたが、眠れないので集中治療室の中の奥の個室に入れられましたそこは無音でした。

金曜日あたりにそこへ移って、土日があったので集中治療室に5日間もいたことになります。

執刀医が回診に来て、「とにかく動け、動け、そうでないと腸が癒着するから」と言いました。

そんな~、尿管も、抗生物質の点滴も入ってる、酸素マスクもしていてどうやって動くのか?

ベッドの柵を掴んで、必死に動こうとするだけで精一杯でした。熱も当然ありました。

集中治療室の「奥の院」(執刀医が言った)では音もしないので、今度は時間が遅く感じられます。

5分が1時間のように感じられました。夫が小さなラジオを消毒して持ってきてくれて、有り難かったです。

当時は開腹手術でしたから、私の傷はみぞおちからお臍を迂回して恥骨上部まで30センチ以上ありました。

私の執刀医は拡大手術をする先生で、リンパ節も多く郭清する、開けたついでに他の臓器も見る方でした。

その時に、胃の外側にあった良性のできものも切っていただいています。今の腹腔鏡手術ではないことでしょう。

後から、「○○君は胃も切っているから、少し食欲も落ちるだろう」と平気で言われた時には、ない食欲が更になくなりました💦

「ええ~、胃まで切ったの?私、食べられるの?」と夫に聞いたら、「ああ、外側だから関係ないよ」でした。

リンパ液が出る管がお腹下から左右に2本刺さっています。抜糸まではお腹も曲がらずピンとしたまま。

何もかもが初めての経験、尿管はこの後もしばらく刺さっていました。

月曜日に回復室2人部屋に移れた時はホッとしましたが、ここで追加治療の抗がん剤があることを夫から聞きました。

執刀医と夫はほぼ毎日のように回診にきてくれて、有り難うという言葉だけでは済まない気持ちです。

今があるのは、あの手術を受けたからなんだと22年が経つ今も思います(涙)

何とか患者たちを笑わせようとしてくれた執刀医の粋な気遣い

それから1週間後にやっと元の4人部屋に戻れました。が、まだ抜糸もできない、身体は清拭のみ、リンパ管からはリンパ液が漏れ出ていました。

そのガーゼ交換が毎朝の日課でした。抜糸をしたら、身体がすごく楽に動かせて気分も変わりました。

私の執刀医(当時50歳代後半)は大柄な、いかにも外科医という感じの先生でした。

4人部屋のうち私ともう1人が同じその執刀医が主治医で、ほぼ毎日1回は部屋に来てくれました。

面白い、患者を笑わせるような冗談を必ず残していくような、素敵な先生でした。笑うと免疫力は上がるのですよね!

最初の抗がん剤の頃、夫の上司からかなりの数の百合「カサブランカ」をお見舞いにいただきました。花瓶も持ってきていないのに・・

そしたら、同じ主治医の、年齢も少ししかかわらないWさんが花瓶を貸してくださって、また、カサブランカのお世話までしてくれました。

もっと多い10本くらいはあったカサブランカ

確かに数は多いし、匂いはするし、どっちかというと邪魔という感じでした。Wさんにも申し訳ないくらいでした。

多かったので、花瓶がある数4人のところに優しいWさんが分けてくれました。

当時は、皆のカーテンは開け放し、患者同士仲良く、気分のいい人は世間話をしてました。

そこに入って来た執刀医が、カサブランカの花の多さを見て一言言って去って行きました。

「カサブランカ、かさばらんか?」 その後4人は笑い転げました、本当に迷惑なほど嵩張っていました~。

また、ある時は誰かが「先生、痒いんです」と訴えました。

すると執刀医は「冬に蚊がいるかもしれないな。この辺りはヤブが多いからな」と言って去って行きました。

少し間を置いて、4人は爆笑しました~。ヤブ医者が多いっていうことですね!!

2回目の抗がん剤の時熱があったのか、私はうがい薬の蓋を落として拾おうとした瞬間、右わき腹から転倒しました

右横の胸あたりが痛くて、痛くて、それを先生に訴えたら、「湿布でも貼っておけ」でした。

看護師さんにもらった湿布

素直に湿布をもらって貼ってはいたのですが、痛みが引くまではかなり時間がかかりました。

抗がん剤が終わって3週間ほどして、検査でレントゲンを撮ったら右肋骨にヒビが入っているのが~。

それを見た先生は「○○君(夫)の家庭内暴力で、前からあったんじゃないのか?!」とわざと言うのです。

「違いますよ~、先生、あの時わきから転んで痛いと言ってたじゃないですかぁ」と私。

しかし、肋骨の骨折、ヒビは自然治癒しか手がなく、そのまんまでした。

私たちの病室だけでなく、他の部屋への先生の回診の後は笑い声がよく聞こえていて、あっちではどんな面白いこと言ったんだろうと4人で話したものでした。

 他にも色々あったのですが、年月が経ち印象深かったこと以外は忘却してしまいそうです。

翌年、気を遣いすぎた、激務の夫が亡くなりましたが、2年間は執刀医の外来に通いました。

いつもショゲて外来に来る私に、色々と面白エピソードはあったのですが書ききれません。

最後に印象に残っているのは、メソメソしている私に、

「人事を尽くして天命を待つ、という気持ちになりなさい」と仰ったことです。その通りです。

素晴らしい先生、今もご存命ですが音信を途絶えさせてしまった不出来な私は、先生の健康を祈っております。

どれだけ感謝しても、し尽せない恩が生涯にわたってありますから

コメント