どんよりとした天気と、朝からダルい身体に、気分も落ち込みます。
このところ、足の状態ばかりが気になって、淡々とした毎日の繰り返しが続いています。
日常が何事もなく、つつがなく過ごせていることは、実はもう「幸せ」なんですけどね。
ただ、どうにも元気がでない日、散歩にすら身体がダルくて行きたくないし、本も読みたくない。
4月がどうも私にとって、大きすぎる変化の月だったことがあります。
母の死、息子の転勤、そして酷い蜂窩織炎と1か月の間に、楽しいことは全くなかったなぁ。
そして、引きずる足の不調と共に、気分まで落ち込んでしまう。
常に変化していくのが当たり前なんだけど、「現状維持」が目下の目標の私。
変化についていけないと、それは落伍者の印を押され、衰弱していくことはわかっています。
こんな言葉を思い出しました。
強いものが生き残るのではない。
賢いものが生き残るのでもない。
変化していけるものだけが生き残る。
進化論のダーウィンの言葉みたいですが、違うという説も。
人間は、昨日と今日では大きな変化はないように見えるけど、実際は日々刻々と変化しているもの。
小さな小さな変化の積み重ねが、数年、数十年で大きすぎる変化になっていたりするのが人間。
思えば、もの心ついた辺りから今まで、ものすごい変化をしてきている、60年あまり。
その年月をかけるから、変化に少しずつ対応できてきたのです。
今日と明日で、ものすごい変化があれば、人によっては受け入れ難いこともあるでしょう。
若い頃は、どんな変化も意外にスンナリ受け入れられたものです。
私の中での一番衝撃的変化は出産でした。
それをも受け入れて、母親としての今があります。
夫を亡くした時も2番目に大きい衝撃的変化でした。
これは、受け入れるのには相当の時間がかかりました。
父親の死は、それほどの衝撃はなかったのですが、まさか母親の死が結構今ごろズシリときています。
「死」は変化の最たるもの。
この歳になったからこそ、「変化」を恐れる、「現状維持」がテーマになってしまったのかも。
皆死ぬことはわかっているけど、シニアになれば少しでも元気でいたい、長生きしたい欲求が出るもの。
それは実は自分が「歳をとった」証拠みたいなものです。
「母の死」や「自分の身体の不調」という変化を一遍に経験して、かなり気持ちは疲れています。
うつ病一歩手前くらいかもしれません。
こんな時は、「自然の中を黙々と歩く」のが人間という動物には一番いいような気がします。
が、わかっていても、足の浮腫みが心配で黙々と長距離なんか歩けません。
グルグルと精神的「うつ」のスパイラルに落ち込んでいくような気がします。
食欲で満たして、美味しいものをたくさん食べることも私にはできません。
誰かとおしゃべりと思っても、自分の都合よく相手が時間があるとは限りません。
「自分の機嫌は自分でとる」ことは、私の1人暮らしのポリシーでもあります。
誰彼となく頼らない。茨木のり子さんの、「寄りかかるのは椅子の背もたれだけ」が頭によぎります。
このところ、非日常がほとんどなかったことに気がつきました。
どこかへ出かけたり、誰かと食事をしたり、元気だったらできている普通といえば普通のこと。
そろそろ動かないのも限界なのかもしれません。
変化を求めて、ソロリソロリとどこかへ行ってみたりしないとね。
自分で自分のご機嫌をとることが大事だったことに、改めて気づいた今日という日。
そして、「変化を受け入れる」「自らも変化していける」ように強くならなくっちゃね。
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